特集 しまねの仕事

過去から本質を学び、今に生かす
この町だからこそできる
心が元気になるモノづくり

株式会社 石見銀山群言堂グループ

株式会社 石見銀山生活文化研究所/株式会社 石見銀山生活観光研究所

世界遺産で知られる石見銀山の大森地区に拠点を置き、「群言堂」ブランドを筆頭に、全国に幅広く事業を展開している石見銀山群言堂グループ。衣・食・住・美を通して、人が心地よく暮らすための提案を発信し、その思いや考えは多くのファンを魅了しています。
創業当時から培われてきた、不変的かつ斬新な発想やモノづくりはどのようにして生まれたのか?お話を伺いに、大森町へと向かいました。古き良き日本の面影が残る大森の街並みに溶け込むように佇む、山裾の大きな茅葺屋根が本社の目印。
石見銀山生活文化研究所の代表取締役所長、松場登美(まつば とみ)さんと、石見銀山生活観光研究所 代表取締役の松場忠(まつば ただし)さん、本店とオンラインショップを担当する六浦千絵(むつうら ちえ)さんにお話を伺いました。

創業されたきっかけを教えてください。

登美

私は40数年前に名古屋から帰郷しましたが、その頃はかつて栄えた鉱山の町が閉山して荒廃してゆく縮図のような町でした。廃墟の町と言っても過言ではないような有り様でしたが、不思議と私は「素敵だな」と思ったんですね。道筋に町並みが連なり、そこに人の暮らしがあって、自然と調和したその歴史ある佇まいがとても美しく見えました。きっとこの土地との相性が良かったんでしょう。直感的にここならやっていけると思いました。

最初は私が子育ての合間に作った小物を、夫の松場大吉(現会長)が行商して歩くところからのスタートでした。ある時友人の勧めで東京の見本市に出店したら大きな反響があり、それが店を作る勢いにもなりました。夫の生家の向かいにあった築150年の古民家を改修して、1989年に現在の本店を立ち上げました。人が集まるような場所にしようと「コミュニケーション倶楽部BURAHOUSE」と名付けました。単に商品を売る店ではなく、メーカーとしての考え方を見せるショールーム的な場所にしようと。店先のディスプレイでイメージを伝え、商品は店の奥に陳列するスタイルは、当時も今もずっと同じ手法です。

今でこそ古民家を利用したお店は色んな所で見かけますが、その先駆けですね。その後、群言堂を立ち上げたのはいつ頃ですか?

登美

1994年です。ウェアを中心に展開しましたが、アパレル企業を作るつもりはありませんでした。私たちは考え方とか、物事の背景にあるプロセスを大切にしています。当時、海外生産が主流になり、いわゆるファストファッションが出てきた頃です。ですが私たちは、日本の産地や職人さんたちと協力して、できるだけ国内の良い素材、高い技術で、質の良いものを作ろうと考えました。

私が服を作る上で大切にしてきたのが「見て楽、着て楽、心が元気」という言葉。着るものって心にも影響すると思うんですね、気分も変えてくれますし。だから締め付けるような服じゃなく、身体が楽な服を着ることで、心も元気に、精神的にも健康にというのがとても大事だと思います。当時は妊婦服みたいだとか、批判もありました(笑)でも今はアパレル全体、そういう服が多くなったように思います。

その後も、群言堂からの派生ブランドや飲食店、スキンケア事業を手掛けていきました。

関東・関西を中心に広く展開されていますが、拠点を都市部に移すことは考えたことありませんでしたか?

登美

これまでもこれからも、全く考えてないですね。事業を広げることと拠点を移すことは別問題です。よく町のガイドさんが本店の前で、ここは全国にお店があるんですよって言ってくださいますが、私としてはここに本店があることが唯一無二の価値だと思っています。

私たちは非効率なことを大事にしようとよく話します。よく効率優先、つまり経済優先が求められますが、経済を優先させ文化をなくしたら、その結果、魅力もなくなり経済も失ってしまう。特に地方においては、それが顕著だと思います。だから、よく例えで話すのは「文化51%、経済49%」というバランス、高い志があれば、経済が文化を揺るがすことはないということ。この土地に本社を設けているからこそ、そういう思いが貫ける、この町だからこそ出来たんだと感じます。

私たちが大事にしている言葉に「復古創新」という言葉があり、過去から本質を学び、それを活かし、未来からの視点で創造するという意味ですが、大森はそれができる町だと思っています。

海外展開などはどのように考えられていますか?

2019年に「石見銀山生活観光研究所」という新会社を立ち上げました。そこで今進めているのは、フランスのパ・ド・カレー県との観光連携です。パ・ド・カレー県も大森と同様に、炭鉱の閉山とともに衰退した地域ですが、そこではルーブル美術館の別館を作り、炭鉱とアートを軸とした地域づくりをしています。その役割を担っている観光開発団体とパートナーシップを結びました。他にもスキンケア事業の「MeDu」の中国展開も進めています。

私がよく言っているのは、観光を「国の光を観る」という本来の意味に戻そうということです。光というのは地域の優れたものという解釈ですが、ただたくさん人を呼ぶのではなく、来た人に喜んでもらえるような価値を提供したいということです。この地域の実態には、そういった価値があると思うので、そこをもっと磨き上げていきたいですね。

新入生に向けてメッセージをお願いします。

登美

「若い時の苦労は買うてでもせよ」という言葉がありますが、最近はできるだけ無難に進もうという風潮がある気がします。失敗が許されないと思っている子も時々います。以前、インターンで来た学生さんの中にとても愛想のいい子がいて、若いのに接客業の経験でもあるの?と話を聞いていたらボロボロ泣き出して、「私は人に嫌われるのが怖いんです。本当の私はこうじゃないんです」って言うんですね。「あなたはそのままで十分魅力的よ」と夜遅くまで話したことがありました。人に嫌われるのが怖い、失敗が怖いなんてどうか思わないでほしい。私なんて未だに失敗ばかり(笑)ですが、自分の意思を持つのは大事だし、ワガママが言える関係、お互いを尊重しあえる関係というのもすごく重要。そういう意味では、社会が少し窮屈になっているのかもしれません。

今の若い人たちは志が高いですが、インターンに来ていきなり「私は社会貢献がしたいです」なんて言う子もいる。今の時代、情報が多すぎるから、よほど高い志を持ってないと生きている価値がないような、色々と背負いすぎている子も多い気がします。県立大学の学生さんと出会うことも多いですよ。みんな総じていい子ですが、本当の自分っていうのをもっと掘り下げる努力をしてほしい。本当は何がしたいのか、何が好きで、何を楽しいと思えるのか、もっと素直に自分自身と向き合って、実体験を積んでいってほしいですね。

松場さんも失敗したことはありますか?

登美

私なんて失敗の連続ですよ。でも「失敗のない人生は失敗だ」という名言を、木次乳業創業者の佐藤忠吉さんも言っておられます。何度失敗してもチャンスはあるということを、若い方に知ってほしいですね。
先日、会長とも、うちの会社は失敗だらけだったから成長できたかもしれないって話をしていました。なんで失敗したんだろうと、振り返ることもありますが、逆境の中でこそ人は学んでいくので、上手くいかなかった経験が成長になるんじゃないかと感じます。

感性やアイディアはどんなところで磨いたり吸収されるのでしょうか?

登美

大森町で築230年の武家屋敷を再生した「他郷阿部家」という宿をしているのですが、そこでは、お客様と一緒にお食事をいただくんですね。おおよそ計算してみるとこれまでに1万人以上の方とお食事をしていることになります。ある方の言葉に、人の成長には「人との出会い、読書と旅」だというものがありますが、いろんな国や地域のお話を聞くことも、大好きな映画を観ることと同じように、私にとってはひとときの旅のようなものです。いろいろなお話を伺えて、すごく勉強になっています。

ほかにも、人との会話、映画、本など、自分の中で印象に残った言葉や琴線に触れた言葉をノートに書き留めています。誰しも自分というものが一番分かりにくいですよね。でもそのノートを見ると自分はどういうことに興味があり何が好きで何をしたいのかが見えてきます。

好きな言葉を教えてください。

登美

私が座右の銘にしているのは「心想事成」という中国の言葉です。心に想う事が成ると書きますが、個人的な欲望じゃなく、こうなりたいとずっと強く思い続ける力っていうのは大事だと思っています。そしてそれができる時というのは、例えば資金ができたとか、人材が揃ったからじゃないんですね。私は“天からスイッチが入る”という表現をよくしますが、何か思い続けていると、「今だ!」と思う瞬間があるんです。それがたとえお金がない時でも。強く思い続けること、諦めないことが大事だと思います。

石見銀山生活文化研究所という社名の意味や、群言堂をはじめとした様々な事業のスタイルには、松場さんご夫婦やそこに関わった数多くの方たちの想いがたくさん詰まっていることが伝わります。
次に、本店のネットチームに勤務する六浦さんにお話を伺いました。

会社に入ったきっかけを教えてください。

六浦

私は生まれは愛知県で育ちは神奈川県、高校卒業後は東京で暮らしていました。大学も東京で、専攻はフランス文学でした。ヨーロッパの古い文化に見られるような時間が積み重なっているものが好きで、京都の古い町並みや、東京のちょっとした小路などを巡るのが趣味でした。

大学卒業後は東京の広告制作会社に入社しました。昼夜問わずの仕事で忙しく、心身ともにバランスが取りづらくなってしまいました。それで、何か身に沁みる仕事というか、ご飯をつくる仕事がしてみたいなと思っていたところ、たまたま東京の杉並区でRe:gendo(りげんどう)という和食のお店のオープニングスタッフの募集を見つけたんです。古民家を利用した佇まいや食事のコンセプトなどが、その時の自分にすごく響いて。すぐに電話をして、キッチンスタッフとして働くことになりました。それがこの会社との最初のご縁です。

そこから島根とのご縁はどのようなものでしたか?

六浦

会長の松場大吉がRe:gendoに来た際、大森の本店のカフェにRe:gendoのノウハウを導入したいから、1年間本店で研修をしてみないかと言われました。Re:gendoの本社が島根にあるということは入社後に知りましたが、働いているうちに色々と興味も湧いてきた頃だったので、島根に行くことを決めました。2013年に島根に行き、最初の半年間はカフェで、主に繁忙期の対応策や効率的なレイアウトやメニューの提供方法など、Re:gendoのオペレーションを導入していきました。

 翌年に東京日本橋の商業施設「コレド室町」にライフスタイルショップを出店することになり、今度はそちらでスタッフとして働くため、本店で半年ほど商品や販売について学び、東京へ戻りました。

島根で1年過ごして、また東京に戻られたんですね。再び島根に来られたのはどうしてですか?

六浦

コレド室町店では店長職も含め4年ほど勤めていましたが、2018年に1年ほど産休をいただきました。その後も営業のお手伝いなどをしていましたが、2020年にコロナの影響で、実店舗の運営が都市部では難しくなってきました。会社の方針として、オンラインショップに力を入れるため、実店舗の経験を活かし、店舗の世界観をネットに反映させてほしいとお話をもらいました。それが2020年の夏頃です。

仕事だけなら東京でも出来ましたが、子どもも小さく、コロナ禍の都市部での子育てはとても厳しいものでした。カメラマンの夫も仕事面でコロナの影響を受けていたので、どうしようか考えていたところ、会社から「暮らしの面でもサポートします」という心強いお言葉をいただき、今度は家族で大森に移住することになりました。

 さらに転勤が決まった直後に2人目の妊娠が分かり、会社に報告したところ、「おめでとう、安心して(島根に)来てね」と皆さんからとても温かい言葉をいただきました。普通の会社だったら、即戦力を求められるので、気が引けてしまうところですが、温かく受け入れてもらい、一層ここで暮らしたいという思いがふくらみました。

今度は家族での島根暮らしがスタートしたんですね。今はどのように日々を過ごされていますか?

六浦

今は大森町内にある一軒家の社宅で暮らしています。研修時に1年ほど同じ町にいたので、地域の魅力やのびのびとした環境は分かっていましたし、もしコロナ禍でなかったとしても、こちらでの暮らしを選んでいたかもしれません。

仕事以外は子育て中心ですが、休みの日などは社員の家族同士で一緒に遊んだり、そば打ちを楽しんだりしています。大家さんの許可を得て、夫とDIYで家のリフォームをするのも趣味の一つですね。子どもとも今までできなかったような、自然の中で体を動かす遊びを、多くしています。町の中には以前住んでいた時に知り合った方もいて、道ばたでずっとおしゃべりをして過ごすこともあります(笑)

島根の良さってどういうところだと感じますか?

六浦

なんといっても食べものがおいしいところですね!魚とか野菜とか、何でもおいしいです。

それと、ここはあまり地方特有の閉塞感みたいな感じがなくて、懐が広いというか、よその人間に対してもすごくオープンに接してくれる人が多いように感じます。それがIターンが多い理由の一つかもしれません。そういう絆の深い生き方だったり、自然との暮らしや遊びなど、島根の魅力を夫にも伝えていたので、夫も移住に対してはノリノリでしたね(笑)

 せっかく島根にご縁をいただいたので、今後はちょっとした島根の大使みたいになりたいです。子育てをしながら色んな所を巡って、お店を通してこの土地の良さが伝えられるようになりたいです。

社員の家族、社員の暮らしも大切にする会社の方針が分かります。
お話から伝わってきた、心地よい生き方と人とのご縁を大切にする気持ち、そこから日々素敵なものが生まれていっていることが感じられました。

ありがとうございました。
2021/01/22 C: Akiko Kotsugi PH: Akemi Sano
※新型コロナウィルス感染防止対策(スタッフのマスク着用、アクリル板の設置等)を行い取材しました。

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