特集 しまねの仕事

おとぎ話にはさせない!
伝統とモダンが融合した
革新的な組子細工を里山から発信

有限会社吉原木工所

「組子(くみこ)」ってご存知ですか?組子とはたくさんの木片を釘を使わず組み合わせ、幾何学模様を作り出す伝統技法です。日本では昔から和室の障子や欄間など建具の装飾に用いられてきました。
その組子細工から新しいスタイルを作り出し、全国で高い評価を受けている吉原木工所をたずねに、三隅町の室谷地区を訪れました。周辺には「日本棚田百選」に選ばれた見事な棚田が広がり、日本の原風景を感じられる風光明媚な地域です。
ここでどのように組子が生み出されていくのか、またここで働く職人さんたちは、どんな想いを持っているのか。吉原木工所の副社長であり、現在のスタイルを編み出した吉原敬司(よしはら けいじ)さんと、組子職人の沖原昌樹(おきはら まさき)さんにお話を伺いました。

吉原さんが組子職人を目指したきっかけを教えてください。

吉原

吉原木工所は父が1958年に立ち上げた会社で、当時は建具を中心に展開していました。小さい頃から働く両親の姿を見て育ち、誰に言われるでもなく、大人になったらここで建具を作ると決めていました。小中高の卒業文集にも書き続けていたくらい思いは強かったです(笑)両親の仕事ぶりがカッコよく見えていたんでしょうね。職人さん達もみんな生き生きしていて、自然とそう思っていました。

高校3年生の夏休みに、突然父に「富山に行こう!」って言われたんですよ。富山の組子職人のところに行くというので見学と思って行くと、そこの親方と、弟子入りの話が進んでいました(笑)だから組子の技術を身につけたのは父の勧めです。当時この周辺には専門的な組子職人がいなかったので、需要があるだろうと考えたようです。

高校を卒業後、そこで6年間修業しました。親方は腕のいい組子職人で、ウェブのない時代に全国から受注が来ていたくらい。自分以外に何人も弟子がいましたね。

修業は厳しかったですか?

吉原

親方はこだわりの強い人だったので厳しかったですが、やめるという選択肢はなかったです。父の見習い時代の体験談からも、簡単ではないというイメージはありましたし、簡単じゃないからこそ乗り越えたいと思いました。

職人なんで美しく作るというのは当然ですが、スピードも追求される。美しいだけでも、速いだけでもダメ。そこを徹底して言われました。だから誰よりも速く美しくというのが目標でしたね。

修業を経て、組子職人として吉原木工所に帰ってこられたんですね。

吉原

島根に戻ってきたのは24歳頃。父が吉原木工所の看板に「組子製品」という文字を入れてくれたのがうれしく、この看板に恥じないよう頑張ろう!と思いました。

ところが、組子の仕事は思うように受注が来ませんでした。周辺に組子職人がいないのはその通りでしたが、需要もなかったんですね。

昔の家には必ず障子や欄間があって、組子も文化として当然のようにあるものだった。でも私が帰ってきた2000年前後はフェイクで(木製のように)仕上げられたものが主流の時代で、住宅も洋風化して、日本の建具の需要自体がなくなっていった。今でこそ日本の伝統文化とか技術が見直されてきましたが、当時は本当に逆風の時代でした。

そんな中でも作り続けるのはすごいエネルギーですね。

吉原

私はやるかやらないかという2つの選択肢があった時、やった方がいいと思うことは全てやってきました。やらない方が楽なんですが、やらない方を選んだ先には、目指す未来には絶対たどり着けないわけですから、そっちの方が辛いです。

仕事としての受注がなくても、とにかく作りたい欲求は常にありました。求められないのに勝手に作って、勝手に値段をつけて、でも売り上げには結びつかない。ただの道楽みたいなものです。そんな調子で、こっちに帰ってきてから十数年は苦難の時代でした。その頃は父ともよくぶつかりました。私もわがままでしたが、憧れの対象だった父とぶつかるのは辛かったですね。

そんな中でもたまに買ってくれる方がいるんです。これでまた作れるという感動で、人前で泣いたこともありました。売れたうれしさというより、自分の作ったもの、私という人間を認めてもらえたような喜びでしたね。

今の組子のスタイルになったきっかけは?

吉原

組子に需要がないとしたら、今の空間に求められるものはなんだろうと考え続けていました。そんな頃、県職員の方の勧めで2012年にパリで開催された「メゾン・エ・オブジェ」に出展しました。会場で隣のブースに出展していた絨毯の柄を見て、「組子の柄を大きくしたらどうか」と閃いたんです。装飾を足していくのではなく、引いて素朴な魅力みたいなところにたどり着いた、つまり引き算です。ただし引きすぎると普通の障子になっちゃいますが(笑)だから模様を大きくした今のスタイルは、私の中では最大限の引き算なんです。それによりデザイン性も高まって、現代の建築にも合わせやすくなる。さらに大きくすることで、誰にでも作りやすく、部材も少なく、比較的安価で提供できる。そうすることで、若い世代にも買ってもらえる組子ができるんじゃないかと考えました。

パリから帰ってからすぐに制作に取り掛かりました。急がないと誰かにやられちゃうんじゃないかと(笑)道具から試行錯誤しながら作り、5カ月後には商品として完成しました。父には「こんなの組子じゃないよ」って言われましたが(笑)自分の中では絶対いける自信がありました。

その後、2013年のグッドデザイン賞を皮切りに、色々な賞をいただけるようになりました。注目されることで受注も増え、今のように従業員を雇えるようになりました。

今では全国と取引があるようですが、地方で作ることに不便はありませんか?

吉原

以前は正直、こんな山の中で作っていることが恥ずかしいと思ったこともあります。周りは田んぼしかないし。でもここを訪れる方たちが、この地域や環境にすごく感動してくれるんです。例えば大阪に、材料が手に入りやすいとか市場が大きいといった地の利があるとしたら、僕らの地の利はギャップなんです。こんな山奥なのに、こんなすごい物を作っている若者たちがいるという。結構驚かれるんですよ、女性の職人なんて特に。もっと仙人みたいな人が作ってると思ってたと言われます(笑)この意外性が、ビジネスにおいては有効なんです。

 新社屋を作る計画もあるんですが、場所はやっぱりここですね。広いところに出たほうが色々楽なんですけど、ここで作っていることが一つのプロモーションになっていますし、社員たちもここでやりたいって言ってくれるんで。何より父がこの場所に作ったっていうのが大きいですね。

これからもっと大きくする計画はありますか?

吉原

もう少し職人を増やしたいですね。今度新しく入ってくる子は建具屋の子で、つまり将来ライバルになるかもしれません。ですが、今業界全体が落ちこんでいて、建具屋がおとぎ話の職業になる日がくるかもしれない。そうならないよう、建具業界を盛り上げていかないといけないので、技術を独り占めすることはしません。

目標は組子を会社に根付かせることですが、もう一つは建具の技術というのを、きちんと日本に残していきたいと思っていて。そのためには組子のあり方というか、デザインなんかを常にリフレッシュしていくべきだと思う。同じものを同じように作り続けて稼ぎ続けられるなんて、それこそおとぎ話です。みんながこの技術できちんとご飯を食べていけるような環境を作ることが、私の仕事。自分だけがお金持ちになることが目的ではないんです。

吉原さんにとって、働くとは何ですか?

吉原

私は仕事が一番好きなので、毎日遊んでいる感覚なんですよ。ありきたりですが、生きがいですね。

売れなかった時代に、この技術をどうやったら買ってもらえるのかっていうのを色々考えたんですが、結局お金っていうのは人の役に立った分の対価じゃないかと。働くっていうのは、自分たちの役割っていうのをきちんと見定めて、世の中の役に立つことじゃないですかね。

新入生に向けてメッセージをお願いします。

吉原

やりたい事とか、好きな事を早く見つけるべきだと思います。幸福度が低い人っていうのは、そういうのがないのかもしれない。好きな事を見つけられたら、ものすごくエネルギーを注力できる。私は、しばらく苦しい時期があって、諦めたほうがよほど楽だったと思いますが、諦めずに続けられたのはひとえに仕事が好きだったから。それだけですね。自分のやる事にあれこれ言われたこともあったけど、それさえもはねのけられたのは、好きだったからこそです。そういうものを皆さんにも見つけてほしいと思います。

吉原木工所の華やかな組子細工が生まれるまでには、並ならぬ努力や、試行錯誤があったんですね。本当に好きな事だから続けられたという吉原さんの言葉が印象的でした。次に、組子職人として働く沖原さんにお話を伺いました。

この会社に入ったきっかけを教えてください。

沖原

私は山口県柳井市の出身ですが、別に家が建具屋とかでもなく、普通の家庭でした。夢があったわけでもなく、何となく地元の大学に進学しました。大学時代に一人暮らしをする中で、インテリアに興味を持って、自分の部屋をコーディネートするのが楽しくて、市内の家具店に行ったり、中でも北欧家具に惹かれましたね。それで、家具作りや木工に興味が湧いて、大学卒業後に岐阜県の高山にある木工の学校に行きました。

そこでは木の筆箱や椅子を作ったりしましたが、ちょっと理想と違っていて、一度木工から離れました。そのあとは青年海外協力隊で、アフリカのマラウイというところで数学の教師をしました。学校に窓も電気もないような環境でしたが、とてもいいところでした。

2年後に協力隊を終えて帰国したのが27歳の頃。それまで就職活動もせずに過ごしてきて、これからどうしようとなった時、ネットで木工の事を調べていたら、たまたま副社長(吉原さん)のブログを見つけたんですね。そこに書かれていた木工のこと、組子のことに興味が湧いて、特に求人はなかったですが、直接電話をして「働きたいんですが」と言ったら、「とりあえず来てください」って(笑)それで、やってみるか!ってなったんです。

その時はまだシンプルな伝統的な組子を作っている頃で、受注も少ない時代だったので、一般的な建具や、張り物の家具を作ることも多かったです。

組子細工をはじめてみてどうでしたか?

沖原

組子の技術は副社長に習いました。組子っていわゆる図形だから、部材の長さを出す時に私は三角関数で計算するんですよ。でも副社長は計算法とか全く使わず、昔ながらの方法でコンパスで作っちゃう。それが私には理解できなくて、数学でやればいいじゃないですか!ってよくぶつかりましたね。大人しく従うべきだったと今は思いますけど、まだ若かったです(笑)入社して10年経ちますが、定番のものは作れるようになり、新人の指導もしています。

印象的なエピソードがあれば教えてください。

沖原

うちの会社は仕事以外でも機械や道具を自由に使えるんですね。私は北欧家具が好きなので、家にあるフィンランドの椅子を真似て、空き時間に作っていたんです。それを見た副社長がインスピレーションを受けて、実際に製品化されたことがあります。東京の施設で使われていますが、それはうれしかったですね。

他に、デンマークとの仕事も思い入れがあります。デンマークと日本の外交150周年を記念した仕事でしたが、デンマークのデザイナーとやり取りしながら手がけさせてもらいました。有名なデザイナーですが、ここの工場にも一度来てくださって。納品した時は本当にうれしかったです。そういうグローバルな仕事も、モチベーションに繋がりますね。

会社のいいところを教えてください。

沖原

一から十までさせてくれるところですかね。最初の木取りっていう製材のところから、納品の取付けのところまで。極端に言うと、荒々しい皮のついた木の状態から、美しい組子になるところまでが見られる。普通は作業を分担する所が多いと思いますが、企画の段階から、木取り、制作、納品のところまで全部携われるところが魅力ですね。お客様の顔や設置場所が見えていると作る気持ちも違いますし、最後にお客様の喜ばれる顔を見られることが何よりのモチベーションになります。

プライベートは何をして過ごしていますか?

沖原

魚釣りが好きで、休みの日には海や川に出かけます。地元は瀬戸内海で釣ってましたが、日本海はまた違う魅力的な魚が釣れるので楽しいですね。ルアーでヒラマサを狙うこともあります。渓流釣りだと北広島の方に行きます。すごくきれいな渓流とか源流があるんですよ。あまり人がいない自分だけのスポットを見つけ、釣りをしながらゆっくり昼ごはんを食べるのが至福の時ですね。

沖原さんにとって「働く」とは?

沖原

大工の言葉で「穴堀3年、鋸5年、墨付け8年、研ぎ一生」という言葉があって、「研ぎ一生」はやり続けても極められないという意味です。以前は特に夢もなく、「日本人は働きすぎだ、自分は働き蜂にはなりたくない」なんて思っていましたが、今は極めたいこと、腕を磨きたいことがたくさんあります。時間がなくて中々できなくて、働き蜂になりたくないっていう言葉とは対極だなと(笑)でも仕事が楽しいので、働き蜂という感覚ではないですね。

 元々、木工は好きでしたが、ここに来て一層、木の良さを感じることができました。自宅にも自作の椅子や木の食器など、木製品のものが色々あります。さっきも話しましたが、うちは会社の機械や道具を仕事以外でも使わせてもらえるので、時間外に自分の好きなものが作れるんですよ。普通はなかなかそういう自由さがないと思うんですが、「せっかく自分で作れるんだからそういう事しないとダメだろう」って言ってくれる。

家族にも、色んなものを作ってプレゼントしますよ。こんな物が作れるようになったんだって知ってもらいたいし、木の良さをもっともっとたくさんの人に伝えていきたいですね。

仕事もプライベートも充実させている、うらやましくなるようなお話でした。
吉原木工所の美しい組子細工は、古くからの木の暮らしの良さを改めて感じさせてくれるようです。

ありがとうございました。
2021/01/18 C: Akiko Kotsugi PH: Akemi Sano
※新型コロナウィルス感染防止対策(スタッフのマスク着用、アクリル板の設置等)を行い取材しました。

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